私は幼少期から、親に虐待されていました。姉と弟がいましたが、自分への当たりが最も強く、近所の人が見かねて、止めに入ることもありました。理性を失った父親からの暴力に、母も「父を刺激したあんたがいけない」と怒鳴って暴力をふるうため、ひたすら耐えるしかない毎日で、その辛さや痛みは、自分自身で昇華するしかありませんでした。
当時は父に歯向かう事はできませんでしたが、中2頃から家から逃れるように、不良グループに交じりました。体も大きくなった頃には、今度は逆に親に対して暴力をふるうようになりました。幼少期から続いた虐待に、その頃には両親への愛情は正直カケラもありませんでした。当然、家族との関係性は悪化する一方で、近隣からの目や親戚の勧めもあり、一人地元を離れることになりました。
新たな生活を始めるために都会に出たものの、お金がないので、家を借りることができません。仲間がいれば情報を交換することもできたのでしょうが、当時の私は一人ぼっちでした。仕事を求めて面接に行くのですが、住所不定で「アパートを借りるお金を前借りしたい」という応募者を雇う会社などありません。
公園で一夜を過ごしたことを機に、野宿が当たり前になりました。食べるものも無く空腹の時間が増えていくと、動く気力も失われます。職探しもできない状態になりました。雨風をしのげる場所を探し、食べられそうなものをあさる毎日が続き、70kgあった体重は、半分の35kgまで落ち、髪は伸び放題、歯はぼろぼろ。20歳そこそこで完全にホームレスになりました。
長身ゆえに仙人のような、街中を歩くこともはばかられる風貌で、段ボールにくるまって寒さを凌いでいると、若者のグループに袋だたきにされた事もあります。その時の後遺症で三半規管に障害が残り、今でも片足立ちができません。生きることを考えるよりも、いっそのこと死を選んだほうが楽に違いない、と考えるまで追い込まれました。その頃は普通の思考ではなかったと思います。当時のことを思い出そうにも、断片的にしか覚えていません。
このままホームレスで人生を終わりたくない。そんな思いで自分を奮い立たせ、すがる思いで、あるラーメン屋に働かせて欲しいと伝えました。私の風貌にラーメン屋の親父さんは驚いた様子でしたが、洗いざらい話した私の境遇を聞き終わると、「働きたいなら、アパートを探してこい」と言いました。言われた通りにすると、部屋を借りるためのお金を貸してくれました。そしてそのラーメン店で働くことになったのです。
それまで食うや食わずの日々でしたが、親父さんはまかないも出してくれました。私も恩に報いようと朝一番からラストまで休まず毎日働きました。何より、親父さんの「ありがとうな」「また、明日、頼むぞ」という言葉が心に染みました。人として認められたり、人に必要とされたりすることがなかった私にとって、その言葉がどれほど嬉しく、励みになったことか。もう一度言ってほしくて、懸命に働いたことは言うまでもありません。今、こうして生きていられるのは、そのラーメン屋の親父さんのおかげです。
ようやく自分の稼ぎで家を借り、生活できるようになると、少し先のことを考えられるようになりました。もしまた崖っぷちに立たされても、自分ははい上がれる、という、自己肯定感のようなものを得て、気持ちは前を向いていました。不思議なもので、気持ちが変わると、これまでの生きるか死ぬかの人生も、唯一無二の人生だったと思えるようになりました。
これまで孤独な時間を過ごすことが多く、食べることにも苦労したことから、「食」で人を幸せにしたいと考えるようになりました。そんなビジョンを実現するために、「起業」するという夢を抱くようになりました。そうはいっても、行動しなければ夢のままです。資金も、経営者として必要な知識も、一から蓄えなければいけません。最短でどのくらい時間がかかるのか、まったくわかりませんでしたが、10年後を目標に定めました。当時、25歳だったので、35歳で起業する、と決めたのです。
お金と知恵を同時進行で貯めるには、現場でがむしゃらに働くしかありません。そこで、勢いのある店を運営している飲食企業を探して入社しました。その後も、上場目前の会社など複数の飲食企業に転職し、店舗運営や経営について様々なことを学びました。この頃は、起業という明確な目標があったので、寝る間もなく仕事をこなす毎日で、生活費を切り詰め、給料のほとんどを貯金に回しました。そんな生活でしたが、ホームレスの頃に比べれば辛いと感じることもありませんでした。最終的にはある会社の役員にまでなりましたが、目標の35歳になった年に独立しました。
独立して出店するためには資金が必要です。それまでに貯めた金額は2500万円でした。しかし、様々な経費を計算するとこれだけでは足りません。初めて銀行からお金を借りることになりました。
借入を申し込むと、銀行の担当者からは「借入せずにその2500万円で始めたらどうか」と言われました。社会的な信用は何もありませんので仕方ありません。その場に支店長がおり、私が持参した通帳の束を横で見ていました。そこには、10年間、こつこつと貯金してきた毎月の金額が記載がされていました。支店長はそれを見て「君、すごいね」と言い、即座に1000万円の融資を決めてくれ、1号店を出店することができました。
業態の考え方、マーケティングの仕方、コンセプトの設定、従業員の教育など、愛される店を作るノウハウは、すべて経験から学んでいたので、2006年にオープンした1号店は初月から黒字経営で、たちまち繁盛店になりました。その翌年には2号店を、2号店の2年後には3号店を、と順調に出店を重ねて、最大14店舗まで拡大しました。
引退した有名なスポーツ選手が「現役時代の記憶は不安と葛藤しかない」と言っていましたが、経営者も同じです。店を運営しているからこそ訪れる素晴らしい出会いや、喜びの瞬間があります。ただ、それはほんの一瞬で、日常は厳しい決断や、辛いことの方がほとんどです。コロナ禍では、毎月億単位のお金が消えていくという怖さを味わいました。
想定外のことが起きるたびに悩み、苦しみますが、こうして経営を続けることができているのは、「自分が幸せになりたいなら、まず周りの人を幸せにしなさい」という考え方を大切にしてきたからだと思います。どうすれば、お客様が、従業員が、取引先が、世の中が笑顔になれるのか。幸せになれるのか。「ありがとう」と言いたくなるのか。その答えを考えて、目標設定し実践することが、私の仕事だと思っています。
目標は高く、「1000店舗」です。1000店舗を目指す理由は、それだけ多くの人を雇用できるからです。とてつもなく大きな目標ですが、実現できないことはないと思っています。意欲に満ちた風土、幸せややりがいを感じてもらえる労働環境を、より多くの従業員と共有し、「この会社に入ってよかった」「充実した人生を歩むことができた」という言葉を聞けたら、経営者冥利に尽きます。
従業員が意欲をもって仕事に励めば、お客様にとっても価値のある店になるはずです。1000店舗となれば、国内にとどまらず、海外にも店舗展開していくことになるでしょうから、世界中に「ありがとう」が広がり、当社にかかわるすべての方々、さらには世の中が幸せになれば、こんなに嬉しいことはありません。
そしていつか、子どもたちが、正しい大人の生き方は利他の精神で社会に貢献する生き方であることを、私たちの姿を通して感じ取ってくれたら、「最高に充実した人生だった」と言えるのではないかと思います。
不安の多い世の中で、自分を見つけ出そうと葛藤している人。自分に何ができるのかと悩んでいる人。人生に希望の光を見出すことができない人。そんな人でも諦めることさえ無ければ、必ず道は開けます。また、本気で一生懸命に取り組めば、多くの人が応援し助けてくれます。私が身をもって経験してきたことですから、間違いありません。働く人にとって自分の夢をかなえるきっかけを見つけられる会社にできればと思っています。
株式会社 グッドスパイラル
代表取締役 熊谷光裕